前回の続き

話がこんがらがったので整理します。

前回書きかけたのは、仕事の話や日本人の仕事に対する捕らえ方の話をすると、あんなに‘NO more robott!!' といって否定されたのは、単純に働く時間が長いからということではないのではないかということでした。

ただ、今西洋人に囲まれてふと感じるのは、自分自身でいることを否定されてないというのが大きい違いだと思います。いま、周りにほかのアジア人がいないので、それはよくわかりませんが、

個人的な意見として、日本人は公の場所ではとくに、自分自身でいることや個性を持つこと、個人的な意見を伝えてはならないことになっているのではないかとお思います。(私は私の人生で生きてきた範囲でしか考えられてないのを前提で書くので間違っていたらいってください。)
すこし例を挙げます。

たとえば電車で息苦しくて、窓を開けてほしくてもちょっと席が遠いといいづらかったりしませんか。公ではじめて会った人との会話に独特の緊張感があるきがします。

上司が言っていることがよくわからなくても、思ったことをいったらこの先どうなるかわからないとか。日本では、よく上司に思っていることが何にもいえなくて我慢している人をみました。我慢が重なって病気になったり。

あと、表面的ではないかというぐらい「真面目」でいることを強要されている気がします。たとえば授業中に歌いだす先生とか料理中に歌って踊り始めるシェフらしき人とか、切符を間違えて買ってしまって電車に乗ってしまいそれをおしえてくれた車掌さんが、あつまって今日どこに行くべきかギャグ交じりでかんがえてくれたり、、そんなことがたくさんありました。もし、日本の英会話教室でいきなり大声で歌いだす先生がいたら確実にクレームになると思います。他人への配慮が足りないとか言われるでしょう。イタリアは一瞬みんなで爆笑しておわりです。

日本では
「空気を読む」とか
「常識、」とか、「思ったことをあまり表情に出さない」とか、
「生意気をいわない」とか
「とにかく間違えない!」

とかとっても大事じゃないですか?

大雑把ですが、そこが違う気がします。
そしてそこがロボットかと思われた理由なのではないかと思います。

個人的には、それと、はたらくことに一生懸命というのは違うのにそれを一緒くたにされてしまうことがいけないのではないかと思います。
一生懸命働くこと=真面目=すばらしい
この図式が西洋の感覚と少し違う気がします。

イタリアでは
人生を楽しむこと=自分自身でいること=相手の個性も尊重すること=すばらしい
見たいな感じなのではないかと思います。日本とは違う感覚で仕事も一生懸命だとおもいます。

そして決定的なのが人生を楽しむことは楽に生きることじゃなくて、今を存分にいきるって事なのだとおもいます。

食べ物とか、会話とか美術とか愛とか人間として大事なものをすごく大事にしています。

でも、仕事は遅いですよね。。。。。。。
イタリア人の友達に電車の145分遅れはあるけど170分遅れはちょっと遅いねっていわれたこととか、一ヶ月前に出した小包がスイスからイタリアでも届かないとか(スイスからイタリア、車でいける範囲です)あるみたいです。ひゅ〜あっぱれ。

次は海外で感じた日本のいいところを書きますね!これもひゅ〜あっぱれです!