fantasia!!!

前回、いろいろな問題を取り上げましたが、ひとつ教育の面で、これが可能になれば日本によさそう
と思うことがあったので発表します!!!でもすんごい長いから、どうしようもなく暇があるときじゃなければ読まないでください。
怒られそうです。

向こうでイタリア語の授業のときによく独創的な問題がだされました。
「ファンタジーアを使って文章をつくる」というものです。

ファンタジーアというのは、空想、想像、妄想、幻想という意味です。
たとえば,「好きな俳優が目の前にいます。なんて誘いますか?」
とかでてきます。(男の子が生徒だったら当然のように女優になんと言うかにかわります。)
イタリア語の授業なので、生徒にイタリア人がいるわけではなく
西洋人の生徒がいるのですが、みんな嬉しそうに文章を作ります。たとえば
「目が合うまで何回か見つめて、目があったら笑顔で話しかけにいく。」とか
(これ、超美人のスイス人の子が言ってて、教室全体がウオーって鳴ってました。)
「こんなに美人がこの世にいるとは思わなかったって言って、ほめながらみつめる」とか
先生はこっちがなにを言おうが「ブラッボ!!ブラッボ!!ブラビッシモ!!(最上級)」といって笑顔でさけんじゃいます。
気に入った答えにはウィンクつきだったりします。
文法が間違ってようが、単語がまちがっててようが、あまり関係なく。
ファンタジーアの問題には

「友達に猫をプレゼントされました。なんて反応しますか?」
とか「親友が100万円貸してほしいといってきました。なんて答えますか?」
とかあります。先生は基本的にどんな答えにもブラッボ!ブラッバ!ってさけんでます。
誠実な事いうとあらやさしいのねーってほめてくれたりその反応から出る個性をすごく大事にしてくれているのが
わかります。友達が、売店で何をするかって問題で、「売店を買う」っていっても、あらそれも可能よね!!すてきねっていってました。
日本だったら、売店は買うものではなく、売店のものを買うのが正解ですってたしなめられるところですよね。

日本人はこの問題を答えるのにすごく時間がかかったりします。
正解が見えにくいからだと思います。日本の授業だったら、もし突飛なこといって「目立ちたがり屋」とか「うざい」とか
「かわってるー」とか陰で言われたくないから無難で短い答え言っとこうっておもったりしませんか?

イタリア人の先生と美術館にいったときに、「日本人(アジア系かな)はまじめだししゃべるのが嫌いだから会話の上達が難しい」ってこぼされたときに
ファンタジーアの問題は日本人は慣れてないから、難しいんだ。正解が見えずらいし。日本ではそういうのないし、
いきなりファンタジーアって言われても時間がかかっちゃうんだって説明したら、理解不能って顔されました。

ここ数年、想像力って人生にとても大事だとおもってたので少しはっとしました。
日本人が積極的に育てるのを忘れてる分野なんじゃないかと。

たとえば、戦国時代の人から見たら
テレビも、洗濯機も、電話もパソコンも、危ない妄想におもわれてしまうかもしれなくて
発想から生み出すものって結構多いと思うんです。
それ以外にも、人生の構成力ってまずは発想がまずいと転がらなかったりしませんか?
いつも悪い想像しかできなかったり、下品な想像しかできない人は、その世界を超えられない気がするんです
何かの偉業を成し遂げるときって、常識的な正解に頼る人の「そんなのむりだよ〜」って言葉に流されたら実現がむずかしいというか。
教育に関しても、たとえば思春期の子がどんどん非行に走っていくときって
親が心配しすぎて思わず下品なことを想像して
「そんな風に思われてるなら、そうなってやる!」みたいな余計な力が働いてできてしまうことがあるって
なんかの脳の本に書いてありました。
ただ親の立場からすれば、危険から子供を守るのは親の仕事とおもって、最悪の事態に備えて育てることは
愛情からきていることは承知なのですが、「夜帰ってこなかったら、援助交際してるんじゃないか?」
見たいな目で見られたら、絶望する子供心もよくわかります。
それに関しては、世の中の風潮というフィルターやただ不安な気持ちを押し付けるのではなく、目の前の子供と向き合って
協定(?)や理解を深めて信頼に持っていくしかないと思うのですが、話がずれました。

実現可能だと誰もが納得する正解を出すことだけに頼ることが、人をコンピューター的にするのではないかと思います。
個性や可能性を育てるのは、ファンジーアを肯定する教育にあるのではないかと思います。
子供のときのファンタジーアって、結構アバンギャルドっていうか面白いから、それを楽しめると個性や個人の尊重につながる気がします。
それに、文学や芸術や自然をめでることがとても大切で、イタリアの文化を愛する気持ちはそこがうまく働いているのじゃないかと思います。

日本に帰ってきて、マニュアル本や流行ばかりに心がとらわれしまう風潮にびっくりしました。
世の中の正解風にそれが出てくると焦ってしまうんだなーと思いました。

もし自分の人生が、一冊の小説だったら、味があって楽しいなっておもえるといいのにと思います。
他にどこにも無くて、独特で、自分らしさがでてて、だからこそいとおしいって思えたらすごくいいのにっておもいます。
だってそんなの愛にあふれてるもの。やっぱり愛は美しかったり豊かだったら素敵にきまってるもの。
その時々の流行の価値観や、出世とか年収とか婚活とか草食系(?)とかに照らし合わせて人生を評価する貧困っぷりが
経済だけを教育の価値観においてしまったかのように見える日本人の、迷子っプリに当てはまるんじゃないかと思うのですが
いかがでしょうか?