我慢とわがままについて

コンテンポラリーダンスをやっていたときに、心に深く刻んだ教訓があった。
コンテンポラリーダンスって、簡単に言えばいまどきにしたバレエみたいなものなんだけど、足を上げるポーズひとつにしても、筋肉を使うべきところに筋肉を使わないときれいにみえない。見慣れるとすぐにわかる。楽をしてるか、筋肉をつかってるか。綺麗に見えないだけじゃなくて、芸術なのに心を動かせないものになってしまう。

 ただでさえ、秒数ごとに激しいからだの動きを求められてるのにいちいち筋肉を入れるなんて、結構きっつい。何度も何度もそんなに気合入れられないのが、まあ本音だった。
でも、先生は見抜くんですね。「うそをつくな!」「ごまかすな!」「自分にショウジキになれ!醜い!」こっちはふらっふらになるまで汗だくに踊ってるのに罵倒が飛ぶわけです。簡単にSとかMとかいう風潮は好きじゃないんだけれど、まあ正直、あの人たちはドSですよ。(嘘です)でも、ごまかしながらじゃ、みにくいんだなって心に刻まれたんだと思う。

 ただ最近、他人に押し付ける我慢については不当だなとよく思う。私の一番嫌いな話で、混んでいる電車に乗っていて、酸素がなくなるくらい苦しいときに、「ちょっと窓をあけてください。」というと、「みんな我慢してるんだからちょっとは我慢しなさい。」といって怒られる話。くだらないけれどよくあることな気がする。「みんな我慢してるんだから我慢しなさい。」で片付けてしまうこと。でも、みんな苦しいなら窓開ければいいのに、と私は思う。
なぜか、我慢が立派なことになっている。

 なにがいいたいのかといいますと、日本(東京?)では、「精神的な努力」と「やみくもな我慢」が一緒くたにされているんじゃないかと思うときがある。努力や一生懸命と我慢が同じというか。「つらい思いをすることがえらい」みたいな。たとえば、なんでそんなに大変だったのに私がダンスにはまってたのかというと、ただ上手に踊りたくてちょっとでもかろやかになりたくて、なりたい人になりたくて夢中だっただけだと思う。すきなことに正直にむかって努力をしたことはいいことだろうけど、つらいのによく我慢したねということで私のダンスへの思いを片付けられたとしたら、ちょっと不本意。我慢というより自分の心にシンプルに従っただけなきがする。

 イタリアに行ったことでその二つの違いに気づくことが出来た。前回のfollow your heartじゃないけど、自分の行きたい道に向かって突き進むことは、わがままじゃないんだなとわかることが出来た。もしかすると我慢を強要しあったときに、人は心が折れてしまうんじゃないかな。自分のこころ、個性を受け止めて他人との違いを理解しあうことが出来れば、我慢を押し付けあわなくてすむんじゃないかと思います。上司が残業してるから仕事も無いのにそれより早く帰れないとか、他人の苦しみに手を差し伸べられないとかは、もしかすると我慢が美徳になっていたことの弊害なのではないかしらと思います。

 
(今回は絵はまったく関係ないものはっときました。)